この記事では2021年よりザスパクサツ群馬に在籍する細貝萌について、プレーの特徴、過去の経歴、注目ポイントなどについて紹介します。
この記事を読むことで、試合中に細貝萌のどういうプレーに注目すると、より観戦を楽しむことができるかを理解できます。また、細貝萌が過去にどこのチームで、どんな選手たちと共にプレーをして、どんな活躍をしてきたかを理解することで、より選手に感情移入しながら応援を楽しめるようになります。
細貝萌はどんな選手か?
細貝萌は2021年からザスパクサツ群馬に加入したMFの選手です。球際での激しい守備、試合の流れを先読みしたインターセプトと危機察知能力、守備的なポジションならどこでもこなせるユーティリティ性、そして長年欧州と日本代表でプレーしてきた経験値に強みを持つ選手で主にCMF、ボランチでプレーします。2021年はシーズン終盤に加入して6試合出場0得点、2022年は20試合出場1得点の実績を残しています。主将として圧倒的存在感でチームをリードする、ザスパクサツ群馬の絶対的レジェンドです。
細貝萌の経歴
細貝萌は群馬県前橋市出身です。3歳上の双子の兄の影響でサッカーを始めます。小学校時代は前橋広瀬フットボールクラブでプレーしていました。関東選抜や関東トレセンに選ばれるなど、県内では有名なFWの選手として鳴らしていましたが、小学校5年時からトップ下のポジションにコンバートされてプレーしています。
中学時代は、地元の強豪チームであるFC前橋ジュニアユースでプレーします。兄が所属していたチーム、ということが加入の決め手だったと言います。中学時代は一貫してトップ下のポジションを任され、高いテクニックを駆使した攻撃的な選手として活躍し、U15日本代表にも招集されるなど高い評価を受けてきました。
高校時代は地元の名門校である前橋育英高校に進学します。横浜マリノスユースなどJクラブのユースからも勧誘を受けていましたが、先に前橋育英を卒業していた兄の影響が、ここでも進学の決め手だったそうです。前橋育英高校のチームメートでは1年上の先輩に常澤聡、同学年に青山直晃、1年下の後輩に田中亜土夢、2年下の後輩に岩沼俊介などが在籍していました。細貝萌は背番号10を背負いトップ下のポジションを主戦場に活躍しますが、前橋育英の名将、山田耕介監督からボランチへのポジションコンバートを指示されます。球際の強さや執着心などボランチへの適性を見出されてのコンバートでしたが、これがプロ選手としての土台を築くターニングポイントとなりました。高校2年次は全国高校選手権1回戦敗退、高校3年次はインターハイ3位の成績を残しますが、選手権は県大会準決勝で敗退していまいます。一方で個人としてはU16、U17、U18と世代別日本代表には毎年継続して招集されており、当時から本田圭佑、家長昭博、興梠慎三らと共に代表でプレーしていました。あまり知られていませんが後にザスパクサツ群馬でチームメートとなる渡辺広大ともU16日本代表で一緒にプレーしています。また高校3年次には浦和レッズの強化指定選手としてもプレーしました。
高校卒業後の2005年、細貝萌はJ1の浦和レッズへと加入し、プロ選手としてのキャリアをスタートします。2005年シーズンはブッフバルト監督の元で、チームメートには闘莉王、長谷部誠、鈴木啓太、三都主、田中達也、エメルソン、ポンテなどが在籍していました。チームはリーグ戦2位と天皇杯優勝を勝ち取りますが、細貝自身はリーグ戦3試合出場の成績に終わります。翌2006年、浦和レッズには小野伸二、ワシントン、相馬崇人などが加わり選手層にさらに厚みを増したチームはリーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を勝ち取り全盛期を迎えますが、細貝自身はリーグ戦2試合出場の成績に留まります。当時の浦和レッズにはボランチのポジションに長谷部誠と鈴木啓太が君臨しており、細貝萌は出場機会をなかなか得ることができず、CBの控え選手という序列でした。2007年には阿部勇樹がチームに移籍加入し、ボランチのポジション争いはさらに激しさを増します。チームは悲願のアジアチャンピオンズリーグ優勝を果たしますが、細貝萌はリーグ戦出場8試合とプロ3年目のシーズンも不完全燃焼に終わります。この頃は出番は少ないながらも、CB、SB、WBなど幅広いポジションで出場していたのが印象的でした。
2008年シーズンの浦和レッズではFWに高原直泰が加入した一方でMFの長谷部誠、小野伸二が海外に移籍したこともあり、細貝萌は徐々に出場機会を増やしていきます。シーズン途中にオジェック監督が解任、エンゲルス監督に変わると本職のボランチでの起用も増え、最終的にリーグ戦26試合出場2得点の成績を残しました。また、細貝萌は2008年北京五輪本大会を戦うU23日本代表に選出されています。この時のU23日本代表は反町康治監督の下、本田圭佑、香川真司、岡崎慎司、長友佑都、内田篤人、吉田麻也、森重真人、西川周作などがメンバーに名を連ねていました。残念ながらU23日本代表は3戦全敗でのグループリーグ敗退となりましたが、細貝萌は2試合にスタメン出場しています。
続く2009年シーズンはフィンケ監督の元で、細貝萌は主に左SBで出番を得るようになります。ボランチには阿部勇樹と鈴木啓太が起用され、細貝萌は怪我人の影響で人材が手薄だった左SBで起用されることが増えました。最終的にリーグ戦31試合出場2得点の成績でシーズンを終えました。
2010年シーズンは柏木陽介が移籍加入し、プロ2年目の原口元気など攻撃的な若手選手の台頭も目立ちましたが、細貝萌自身は本職のボランチにポジションを固定されて試合出場の機会を得るようになります。リーグ開幕戦では当時浦和のキャプテンだった鈴木啓太からボランチのスタメンポジションを勝ち取ったことで話題を呼びました。細貝萌は浦和レッズ最後のシーズンをリーグ戦28試合出場1得点の成績で終えています。一方で、この年から細貝萌は日本代表にも選出されるようになります。アルベルト・ザッケローニ監督が就任した日本代表チームへ初選出され、2010年9月4日のパラグアイ代表戦でA代表デビューを果たしています。以後、2013年11月まで、ザッケローニ体制の日本代表チームのほぼ全ての試合にコンスタントに召集されることになります。
2010年12月、細貝萌のブンデスリーガ1部レバークーゼンへの完全移籍と、2012年6月までのドイツ2部アウクスブルクへの期限付き移籍が発表されます。元々海外志向が強かったため、初年度からレンタルで出されることも含めて海外移籍することが自身の成長に繋がるという判断でした。また、この決断に際しては、浦和レッズのチームメートで過去にレバークーゼン在籍経験のあるポンテからの後押しが大きかったと言います。ブンデスリーガとJリーグの環境面や練習面での違いなどを教えてくれながら「必ずいい選手になれる」「絶対に行くべきだ」と背中を押してくれたことを後に明かしています。
アウクスブルク加入1年目の2010-11シーズンは、シーズン後半からの加入ということもありチームへの適応に時間を要しました。細貝萌自身はリーグ戦7試合出場0得点の成績に終わりコンディション調整に苦しみましたが、チームは見事に1部昇格を勝ち取り、翌シーズンをブンデスリーガ1部で戦うことが決定します。また、当時アウクスブルクで指揮を取っていたヨス・ルフカイ監督との出会いは、細貝萌のその後のドイツでのキャリアにとても大きな影響を与えることになります。
2011-12シーズン、アウクスブルク2年目となる細貝萌はスタメンポジションを勝ち取り、厳しいブンデスリーガ1部残留争いを繰り広げるチームを中心選手として引っ張る活躍を見せます。特に第25節のドルトムント戦では香川真司を激しいマンマークで完封する活躍で、MOMとこの節のベストイレブンに選出されるなど注目を集めました。最終的にはリーグ戦32試合出場3得点の実績を残しアウクスブルク史上初の1部残留に貢献します。この32試合出場という数字は当時ブンデスリーガに所属していた日本人選手(香川真司、岡崎慎司、長谷部誠、内田篤人など)の中では最多出場試合数の記録となっています。
2012-13シーズン、細貝萌はアウクスブルクへのレンタル移籍期間満了に伴い、レバークーゼンへと復帰します。チームを率いる監督はサシャ・レバンドフスキとサミ・ヒーピアの二頭体制で、チームメートにはキースリンク、シュールレ、ロルフェス、ラース・ベンダー、ライナルツ、フリードリヒなどドイツ代表候補選手がズラリと並ぶビッククラブでのプレーとなりました。細貝萌は年間を通してスタメンポジションを獲得するまでには至りませんでしたが、各国の代表クラスが集まる強豪チームの中でもSBのポジションで一定の出場機会を掴み取り、リーグ戦17試合出場0得点の成績を残しレバークーゼンのブンデスリーガ3位と翌年のチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献しました。
2013-14シーズン、細貝萌は2部からブンデスリーガ1部に昇格してきたヘルタ・ベルリンへ移籍します。移籍の決め手は、SBではなく本職のボランチで勝負できる点と、アウクスブルク時代の恩師であるヨス・ルフカイ監督の存在でした。来期の欧州チャンピオンズリーグに出場できるレバークーゼンからもチームに残ってほしいというオファーは貰っていたようですが、信頼する恩師の元でボランチで勝負し、2014年ブラジルW杯で日本代表として活躍する青写真を描きながらヘルタ・ベルリンへの移籍を決断しました。2013-14シーズン、細貝萌は一貫してボランチのポジションでスタメン出場を続け、怪我人などチーム事情による緊急時にはCBもこなすなどルフカイ監督から全幅の信頼を寄せられる形でリーグ戦33試合出場0得点の成績を残しました。チームも11位でブンデスリーガ1部残留を果たし、ヘルタ・ベルリンの中心選手として充実したシーズンを送りました。しかし、細貝萌はシーズン終了後の2014年ブラジルW杯本大会を戦う日本代表メンバーから落選してしまいます。日本代表のボランチポジションには主軸の遠藤保仁、長谷部誠に加え、国内組で評価を高めた青山敏弘、山口蛍が選出されました。攻撃的なチーム姿勢を打ち出したザッケローニ監督の人選だったと思われますが、これにはヘルタ・ベルリンのルフカイ監督も「まったく理解できない」「ハジメはここベルリンで素晴らしいシーズンを送った。にもかかわらず選ばれなかった。説明してもらいたいね」とコメントを残し、細貝の代表落選に憤りを隠しませんでした。
2014-15シーズンは、浦和レッズ時代の後輩である原口元気がヘルタ・ベルリンに加入しチームメートとなりました。細貝萌はブンデスリーガ1部を戦うヘルタ・ベルリンで2シーズン目も開幕からボランチのレギュラーとして出場を続けます。しかしチームが勝ち星をなかなか上げることができず降格圏の17位に低迷すると、シーズン途中の2015年2月5日にヨス・ルフカイ監督が解任されてしまいます。新監督のパル・ダルダイ監督体制で、細貝萌はベンチ外が続き出場機会が激減します。さらに足の湿疹が原因で足に菌が入り炎症を起こし、8日間の入院を余儀なくされるなど、非常に厳しいシーズンとなりました。最終的にリーグ戦20試合出場0得点の成績でシーズンを終えています。
2015-16シーズン、細貝萌はトルコのスュペル・リグ(1部)のブルサスポルへ期限付き移籍で加入します。当時のトルコリーグには、欧州五大リーグで活躍してきたスター選手のマリオ・ゴメス、ルーカス・ポドルスキ、ロビンファンペルシー、ナニ、リカルド・クアレスマ、サミュエル・エト-らが各チームに在籍しており、非常に熱い盛り上がりを見せていました。細貝にはドイツのクラブからのオファーも届いていたそうですが、慣れ親しんだ国でのプレーよりも、新たな環境での生活やサッカーにトライすることを優先して移籍を決断します。この年のブルサスポルはなかなか勝ち星を上げられない試合が続き、1年間で3度監督が交代する苦しいシーズンとなりましたが、細貝萌はシーズン後半には右SBのレギュラーに定着し、リーグ戦20試合出場0得点の実績を残しました。
2016-17シーズン、細貝萌はドイツ2部のシュツットガルトへ完全移籍で加入します。当時のシュツットガルトは前年にブンデスリーガ1部を17位で終え、1976年以来となる2部降格の憂き目に合っていました。1年での1部昇格を目指して招聘されたヨス・ルフカイ新監督の存在が、今回も細貝の移籍の決め手となりました。細貝萌にとっては、アウクスブルク、ヘルタ・ベルリンに続き、ルフカイ監督の元でプレーするのは3チーム目となります。当時のシュツットガルトのチームメートには、クリスティアン・ゲントナー、ケヴィン・グロスクロイツ、後に名古屋グランパスでも活躍するミッチェル・ランゲラック、そして浅野拓磨が在籍していました。細貝萌はリーグ開幕からスタメンで出場し、ルフカイ監督の厚い信頼を勝ち取っていましたが、そのルフカイ監督がシーズン開始直後の9月に電撃辞任してしまいます。スポーツディレクターとの方針が合わず、チーム強化部との衝突が原因と言われています。後任のハネス・ヴォルフ監督の元で、チームは1年でのブンデスリーガ1部昇格を勝ち取ることになりますが、細貝萌は怪我の影響もあり出場機会を減らし、最終的にリーグ戦10試合出場0得点の結果を残し、シーズン途中での移籍を決断します。
2017年3月、細貝萌のJ1柏レイソルへの移籍が発表されます。柏レイソルを選んだ理由を加入会見で聞かれた細貝は、同じ群馬県育ちで1997年から2005年まで柏レイソルでプレーした大野敏隆への憧れを強く抱いており、小学校の卒業文集にも「柏レイソルに入る」と書いていたエピソードを明かしています。当時の柏レイソルは下平隆宏監督が指揮を取り、チームメートにはクリスティアーノ、ディエゴ・オリベイラ、伊東純也、中山雄太、中谷進之介、中村航輔などが在籍していました。細貝萌は試合終盤のクローザー役として途中投入される役割が多く、2017年はリーグ戦14試合出場0得点の結果を残します。2018年シーズンは元ザスパクサツ群馬の江坂任、瀬川祐輔などが加入しチームメートとなります。しかし細貝萌は柏レイソル2シーズン目も本調子を取り戻すことができず、リーグ戦8試合出場0得点の結果に終わり、チームも17位でJ2降格が決まってしまいます。
2018年12月、細貝萌のタイリーグ1部ブリーラムユナイテッドへの移籍が発表されます。7年振りのJリーグで思うようなプレーが出来ず、一度は引退も考えたと言いますが、もう一度日本を離れて異国の地でサッカーに向き合うことを決断します。ブリーラムユナイテッドは前年度にタイリーグで優勝している名門チームで、タイ国内ではトップクラスの経済力と選手層を誇るチームでした。しかし、細貝萌は移籍発表直後の2018年12月に膵のう胞性腫瘍という病気を発症し、生死を彷徨う壮絶な闘病生活を送ることになります。腹部を6ヶ所を切る大手術で腫瘍の摘出には成功しますが、痛み止めの副作用による止まらない嘔吐、寝返りすら打てない体の痛みなどに苦しみ体重も7kg落ちました。家族に支えられながらの壮絶な闘病生活を乗り越え2019年3月にはタイリーグの試合に出場しています。当時のチーム関係者が「コンディションを戻すのに12ヶ月は掛かるだろう」と予想していた中で、3ヶ月で実戦復帰を果たせた裏には、細貝萌の血のにじむようなリハビリの努力があったことは想像に固くありません。最終的に細貝萌はブリーラムユナイテッドでリーグ戦27試合出場0得点の成績を残し、シーズンを通してフル稼働の活躍を見せ、久しぶりに充実したシーズンを過ごしました。
2020年シーズン、細貝萌はタイリーグ1部のバンコクユナイテッドへ期限付き移籍で加入します。新型コロナウイルスの影響で長期中断期間を挟み、2020-2021シーズンという変則的なスケジュールで実施されたシーズンをリーグ戦28試合出場1得点の成績で終えています。そして2021年5月には契約満了によるチームからの退団が発表されました。しかし、細貝萌は次の移籍先を探すことを急がずに無所属の状態で約4ヶ月間を過ごしています。まだ数年間は選手としてプレーを続けられるように、今一度自身の体の状態をチェックしておくこと、そして地元への恩返しとしてザスパクサツ群馬への移籍の可能性を模索したいことが背景にはありました。
そして2021年9月23日、細貝萌のザスパクサツ群馬への加入が発表されます。2021年シーズンはリーグ戦6試合に出場し、下位4チームがJ3降格となる変則シーズンのタフなJ2残留争いの終盤戦を支えました。
2022年シーズン、大槻毅監督が就任した新体制のチームで、細貝萌はキャプテンに就任します。開幕からチームの大黒柱として中盤の守備を一手に担う圧巻のプレーを見せていましたが、第3節のベガルタ仙台戦で左足関節脱臼骨折の怪我を負ってしまい全治6ヶ月と診断されます。その後は懸命のリハビリを続け、第26節の町田ゼルビア戦で復帰を果たします。全治6ヶ月という診断結果に対して4ヶ月間で実戦復帰を果たす懸命のリハビリと調整力には、主将としての決意と責任感の強さを誰もが感じ取りました。最終的にはリーグ戦20試合出場1得点の成績を残し、2年連続でザスパクサツ群馬をJ2残留に導きました。
細貝萌のプレースタイルと強み
細貝萌のプレースタイル最大の特徴は、タイトで激しいプレッシングと、ゲームの流れを先読みした危機察知能力を兼ね備えている点にあります。球際の強さや守備のセンスは、高校時代にボランチへのコンバートを指示した山田耕介監督にも当時から評価されていたと言います。ドイツ1部レバークーゼンでSBのポジションでプレーしていた当時は、「スズメバチのように相手選手を飛び囲み、針で刺すような守備」と、その守備力を評されました。レバークーゼンからヘルタ・ベルリンへ移籍した際には「レバークーゼンからスズメバチがやって来る」と強豪チームから移籍してくる期待のスター選手として地元ファンから注目を集める程、細貝萌の守備力の高さは既にドイツ国内で有名なものとなっていました。細貝自身もあらゆるインダビューやメディアの中で「球際での闘い」を意識したコメントを発言することが多く、自身のストロングポイントとしては勿論、チームが勝利するためのキーファクターとして強い拘りを持っていることが伺えます。ザスパクサツ群馬に加入してからのプレーを見ると、要所でピンチの芽を摘むリスク管理能力の高さについては、もはやJ2リーグの中で別格の貫禄を感じさせます。スタジアムで実際の試合を観戦すると、細貝萌のたった1つの守備が試合の流れまでを変えてしまうようなシーンを見かけることがよくあります。このタイミング、このワンプレーでボールを奪うことができればチームとサポーターの士気を高め、ゲームの流れを一気に呼び込めると判断した勝負所では、激しいチャージでボールを奪い取りスタジアムを湧かせてくれるでしょう。
また、守備的なポジションならどこでもこなせるユーティリティ性も細貝萌の特徴です。若手だった浦和レッズ時代からCB、SB、WB、ボランチと幅広いポジションでプレーしてきました。U23日本代表ではCBなどでプレーする機会も多かった一方で、A代表では本職のボランチにほぼ固定されてプレーをしています。海外移籍後は、主にアウクスブルクとヘルタ・ベルリンではボランチでプレーし、レバークーゼンとブルサスポルではSBでプレーしました。本人はボランチでのプレーに強い拘りは見せつつも、チーム事情によってはCBやSBのポジションも柔軟に対応してきたキャリア経験を有しています。ザスパクサツ群馬でも基本ポジションはボランチでの出場が多いですが、将来的に他のポジションで起用される可能性もあるかもしれません。
細貝萌の注目ポイント
細貝萌の特筆すべき注目ポイントは何と言っても、ザスパクサツ群馬のホームタウンである群馬県前橋市出身のサッカー選手であるということです。前橋育英高校サッカー部では、今でも細貝萌の活躍は、松田直樹と並んで代々語り継がれるほど部員たちの間では有名な話で、プロ選手を目指す高校生の憧れの存在です。自身を育ててくれた地元群馬に恩返しするためにザスパクサツ群馬でプレーしたいという強い想いを持ち、本人からザスパクサツ群馬に逆オファーを出す形でチームに加入した経緯は、地元のファンサポーターにはたまらなく嬉しいエピソードではないでしょうか。
そしてもう1つの注目ポイントが、日本代表と欧州クラブで長くプレーしてきた豊富な国際経験です。日本代表としてはアンダー年代から継続的に招集され続け、常に日の丸を背負ってプレーしてきました。A代表として通算30試合出場の実績を誇ります。そしてクラブレベルではドイツで約6シーズン、トルコで1シーズン、タイで2シーズンをプレーしてきたキャリアを有します。特に世界4大リーグの一角であるドイツ ブンデスリーガの第一線でプレーし続けることで培われた対人プレーの強さ、勝利に拘るメンタリティ、豊富な経験値とリーダーシップは、ザスパクサツ群馬の中では抜きん出ていますし、Jリーグ全体を見渡しても稀有な実績の持ち主といえるでしょう。
圧倒的な実力、実績、経験値、リーダーシップを誇る地元出身選手の象徴的存在にして、ザスパクサツ群馬の絶対的レジェンドである細貝萌が、今後もチームをさらなる高みに導いてくれることを期待して応援していきましょう!